新潮文庫で読了。この物語は、1951年、原作者ガルシア=マルケスが住んでいた小さな町(スクレ)で、実際に起こった事件が題材になっている。その意味では、一種のドキュマンタシオンに基づいているのだが、感動させられるのは、つぎのような荒唐無稽なリアリズムだったりするわけで。
バヤルド・サン・ロマンは、刺繍をしていたほかの女たちが呆気に取られているのもかまわず、一歩進み出ると、鞍袋をミシンの上に置いた。
「さてと」と彼は言った。「やって来たよ」
彼は着替えの詰まった旅行カバンのほかに、もう一つ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。
バヤルド・サン・ロマンは、刺繍をしていたほかの女たちが呆気に取られているのもかまわず、一歩進み出ると、鞍袋をミシンの上に置いた。
「さてと」と彼は言った。「やって来たよ」
彼は着替えの詰まった旅行カバンのほかに、もう一つ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。
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「社会的なもの」・「政治的なもの」にたいしてまったく接続回路を持たないいつもながらのムラカミワールドの自閉性。それにしてもこの作家の日本語の通俗ぶりには、どこか川端康成に通ずる媚態があって、川端のエクリチュールにいつも抵抗を覚えるということは、同様にこの現代作家の良い読者にもなれはしないということなのだろう。にもかかわらず川端がかつてノーベル賞をとったということは、ひょっしたら村上もそのうちマーケティングの甲斐あっておなじ境遇になるかもしれないが(そうならないことを望むばかりだ)、東京物ということで読んでみたものの、これでは内田百閒の『東京日記』の足元に遠く及ばない。本書は、百冊の村上春樹は百閒の一篇のテクストにも如かずというcostatである。
ウルフのこの小説は、登場人物たちの発話ないしは内的独白と、海の情景の描写とから織りなされている。いわゆる地の文と呼べるもの、背景描写や、登場人物たちの行為の叙述はほとんどない。そして、彼らの発話は、いったん、≪「...≫という括弧の記号で始まりながら、それを≪...」≫によって閉ざされることがなく、つぎつぎと≪「...≫だけが打ち重ねられていく。まるで岸辺に打ち寄せる海の波の無限の反復だ。